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日本と世界の安楽死についてノンフィクション作家宮下洋一氏と元功労大臣舛添要一が語る

安楽死、それは最早欧州のプロテスタント圏においては当たり前のものになりつつある。自殺に抵抗感の強いカトリックであっても合法化の波が来ている。しかし日本はまだまだ議論が始まってもいない状況だ。



評論家・西部邁氏(享年78)が、自ら人生に終止符を打った。「自裁死」、その響きは一見、美しい。だが、多摩川に入水するという行為はあまりに凄絶だ。同氏の真意は分からないが、一般論として日本の高齢者の「死に方」は、限られている。

一昨年、橋田壽賀子氏(92)が「安楽死で逝きたい」と公言したのも、死を巡る議論の閉鎖性に、風穴を開けようとした狙いもあるという。世界六カ国で安楽死の「現場」を訊ね、このほど『安楽死を巡るまで』を上梓した宮下洋一氏と、自らの母を看取った経験を持ち、終末期医療にも精通する元厚労大臣の舛添要一氏。日本人の死に方を巡って、1月20日、B&B下北沢店にて二人が議論を交わした。(撮影・吉澤直哉)

img 2a6bd2491d981681a1e598c73b97d100207059 日本と世界の安楽死についてノンフィクション作家宮下洋一氏と元功労大臣舛添要一が語る

“安楽死”は答えが出せないテーマ

舛添 宮下さんの本(『安楽死を遂げるまで』)を読んでいて、死にまつわる議論に正解がないことを改めて感じました。実は私自身も、理想の死について考えさせられたことがあるんです。

私は、母が2000年に86歳でなくなるまで、毎週末、北九州の自宅に帰って、介護していました。痴呆症に加え、段々と体も弱ってきていましたから、お医者さんも「お葬式の準備をしてください」と言う。でも、意識が失われていても人工呼吸器をつけていれば、永遠にといえば語弊はあるかもしれませんが、いくらでも死期を延ばせるわけです。

でも、一日死を先に延ばすだけで、完全回復するわけではない。歳も90近い。本人も苦しんでいます。これは楽にさせてあげたほうが親孝行ではないか、と思うんですよ。瞳孔が開きかかっていて、もう限界というところで、お医者さんと相談して、人工呼吸器のスイッチを止めてもらいました。

自分の親ですから、一秒でも長く生かしてやりたいけど、一秒生かすことが、彼女の苦痛を延ばすことでもある。ここに正解はない。

宮下 そうですね、「死に方」は国によって違うし、もちろん人によっても違う。この本を書くにあたって、スイス、オランダ、ベルギー、アメリカ、日本といった国々を訪れ、時には安楽死の「瞬間」にも立ち会ってきました。

スイス、オランダ、ベルギーは安楽死先進国と呼んでもいいぐらい、終末期医療の一つとして安楽死が定着しています。スイスでは自国民以外の外国人の安楽死が認められているし、オランダでは、全死亡者の4%(約6000人)が安楽死で亡くなっています。ベルギーでは、精神疾患者も安楽死を選ぶことができます。

当初は、第三者である医師が患者を絶命させることに抵抗がありました。これらの国を回って、関係者を取材していると、患者は「最期」を自ら選べることに安堵し、安楽死の決行日前日も穏やかな表情を浮かべている。

遺族も本人が熟慮した末の決断ということで、それを尊重しています。これは文化の違いなんでしょうが、「個人の意思」がなにより重視されるのがこうした国々なんです。

舛添 欧州の「個人主義」は、キリスト教の影響も大きいでしょう。とくにオランダやスイスは、個人の権利を尊ぶプロテスタントが強い。伝統的な家族関係を重視するカトリックの国、具体的には、フランスやイタリア、ポルトガル、スペインでは安楽死には、根強い反対があるそうですね。

via: 日本人の「死に方」はなぜこんなにも窮屈なのか(現代ビジネス) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

img 5b4d4a046bbea2654c31c3d7d8d4ca6b79693 日本と世界の安楽死についてノンフィクション作家宮下洋一氏と元功労大臣舛添要一が語る

 

姥捨て山という日本の陰

姥捨て山、という言葉を聞いたことがある人も多くないのではないでしょうか。昔日本にあったとされる考え方です。つまり、貧困に陥った家族の中で、一番最初に死ぬのはそこの老婆だというのですね。子どもたちが食べる分のために、自分は死を選ぶ。自ら山の奥まで行くこともありますが、非常に有名な小説では実の息子が母を山の奥までおぶって連れて行きます。歩いて帰ってこれない程遠くまで。

 

もちろん彼は母親を殺したいと思っているわけではありません。しかし、誰かが死ななくては全員が生きていけない。そういう時に老婆が自ら手を上げ、死を選ぶ。そんな強烈なストーリーの中で、私達は生きる意味や死ぬ意味、責任や家族ということについて考えるわけです。

 

日本ではこのような文化があることから、尊厳死などについてネガティブな印象が少なくありません。貧困のせいで、お金が無いから死んでほしいと思ってしまうことは恥であり、本人にも伝わらないようにしたい。でも本人はよくよくわかっており、自分が疎んじられているのに気づいてしまう…こんな状況を安楽死と聞いた時に思い浮かべてしまうのかもしれません。

 

でも、死を選ぶ自由もある

それでもやはり、あるいはそれだからこそ、私たちはその死に方を選んでも良いのではないでしょうか。今だと電車に飛び込んだりビルから飛び降りたりクビを吊らないと簡単に自殺も出来ません。必ず死ねるかもわかりませんし、恐怖も苦痛もあります。

 

もっと穏やかに、自ら死ぬことは出来ないか。痴呆症になって何もかもわからなくなってしまう前に、自らの人格がある内に、自分の意思で色んなことが決められる内に死ぬことだって許されるべきではないか。わたしたちは知らない間に産み落とされ、気づけばこの人生を生きている。最後くらい自分で決めてもよいのではないでしょうか。

 

自由にはいろんなものがありますが、その究極がここにあるように思うのです。だからこそ、色んな自由が認められない日本ではこの死を選ぶ権利についてはまだまだ導入が進まないだろうなと感じます。





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