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【シャルリー・エブドテロ事件】表現の自由を無制限に認めても良いのか

表現にはある程度の毒がある

イスラム過激派がシャルリー・エブドを襲撃した事件に関して、ブロガー・大熊将八氏が「表現にはある程度の毒がある」「毒になることを恐れていては表現できない」とのことを書いています。

 

シャルリー・エブドの風刺画は単なる侮辱・挑発だと思っている私としては、大熊将八氏の意見に賛同はできません。





表現の結果としての毒、意図的な毒

表現は毒を伴うこともあるし、「批判」なき表現はインパクトがない。このテーゼ自体はわたしも正しいと認めます。しかし、このテーゼをシャルリー襲撃の文脈で主張するのは、ちょっと論点そらしのように感じる。

 

まず…

 

  • ・表現の結果として、毒(批判)になって誰かを傷つけた
  • ・誰かを傷つけたり挑発するために表現した

 

両者は似ていてるようで違うものです。シャルリーは、何か思想・主張のようなものがあって表現をしたんじゃなくて、炎上目的(売れるだろう・ウケるだろうっていう意図)のもとにあの風刺画を描いたんじゃないかと思える(シャルリーの本当の意図なんて知らんけど)。

 

大熊氏は、「ひぐらしのなく頃に」を例にあげて、表現は殺人を引き起こしかねないとつなげています。ひぐらし好きなわたしからすると笑止千万。殺人を引き起こそうとして描かれた作品でないことは明らかであって、イスラム教徒を激怒させることを目的としたシャルリーと同列に語るな、と。

 

「毒」の程度・方法

次に、「毒」の程度・方法もきちんと把握して論じるべき。 表現には毒がつきものだ、と言って、どこまでも際限なく毒を認めていいのか…決してそうではありません。日本の法律では、名誉棄損・侮辱などに該当しない程度の表現が求められます。公共の福祉に反しない限りの、いわば常識的な範囲での「毒」じゃなければならない。そんなの知ったことか、と誹謗中傷を垂れ流すのは、表現者ではなくただの無法者でしょう。

 

大阪の道路標識に「アート」の名目で、シールを貼り付けて逮捕された自称芸術家が逮捕されたって事件が起きました。アート・表現は自由って言って暴走するとこうなるんですよねぇ。

 

大阪で、道路標識にシールを貼り付けたとして、43歳の女が道路交通法違反の疑いで逮捕されました。
大阪や京都では、去年の年末からことしにかけて、同じようにシールが貼られた道路標識が数十か所で見つかっていて、警察は、女と外国人の男が関わっているとみて調べています。

逮捕されたのは、販売員の浦川真弥容疑者(43)です。
警察によりますと、浦川容疑者は今月3日の夜、大阪・北区茶屋町の市道で、一方通行の道路標識の矢印の部分にシールを貼り付け、交通の危険を招いた道路交通法違反の疑いが持たれています。
近くの防犯カメラに、浦川容疑者とみられる人物が外国人の男と一緒に標識にシールを貼り付ける様子が映っていたことから、警察が捜査していました。
調べに対し容疑を認め、「芸術目的でやった。今は大変なことをしたと思っている」と供述しているということです。
大阪や京都では、去年の年末からことしにかけて、道路標識に人形などをかたどったシールが貼られているのが数十か所で見つかっていて、警察は浦川容疑者と外国人の男が関わっているとみて調べています。

 

via: 道路標識にシール貼る 女を逮捕 NHKニュース

 

シャルリーの場合には、違法とまでは言えないかもしれません(違法と判断されうるラインではないかとも思うが)。しかし、イスラム教に対する常識的理解をもっていれば、明らかに限度を超えた「表現」だったといえるでしょう。

 

わたしとて、限度を超えた表現はテロで制裁されて当然と言っているわけではありません。テロは許せない。それを前提に…表現だからしょうがないよねっていう論調には組することができないってことです。

 

記事引用

さて、この事件についてどういう意見表明をしようかと、色々迷いました。そして調べていく中で、
7年前に読んだこの記事のことが思わずよみがえりました。

いっそひぐらしのせいでもいいんじゃないのか、もう。フィクションは現実に影響するよ。

 内容は、当時の青少年の猟奇的な事件が「ひぐらしのなく頃に」という作品に影響を受けたものだ、とマスコミからたたかれていたことについて、作品のファンが意見を表明したもの。筒井康隆の小説「大いなる助走」の影響を受けて殺人に走った少年が過去にいたという話に類似しているとし、筒井康隆がそれを肯定的に捉えていたことを伝えています。筒井はなんと

愛情に飢えたこどもに対して僕の文学は効きめがあったわけです。人殺ししちゃつた(笑)。


とまで言っています。

 もちろん今回の事件(読み手が書き手を殺した)と「ひぐらしのなく頃に」「大いなる助走」(読み手が書き手とは別の人物を殺した)とは根本的に構造が異なります。 しかし同様と言えるのは、ある表現が、受け手に「殺人」という行動に至らせるまでの影響を与えたこと。

 そもそも漫画や文章といった実態を伴わないものが、人の思想に影響を与え、行動まで改めしむる。それは表現することの醍醐味でもあります。
 僕も、高校2年生の時に村上龍の小説を読んで「もっと人生を楽しまなくてはいけない」「もっと勉強して世の中のことを知らなければいけない」と強く思ったことでその後の人生が変わりました。
 僕も人に影響を与えたい、そのためにたくさん文章を書いたり体を動かして表現していきたい、と強く思うようになりました。

 けれど、誰も傷つけない強い表現などというのはこの世に存在しません。

 一生懸命調べて、考え抜いた末の持論を発表して記事が反感を買って炎上することもあります。とりわけネット媒体であれば、匿名であろうとなかろうと、容赦ない罵詈雑言が浴びせられることも。僕のような学生ですらそうなのだから、プロは日常茶飯事でしょう。ある時、元新聞記者の方に「ジャーナリストになろうと思います」と相談したら、「(後遺症の残る怪我をする場合もあるから)保険にはキチンと入っておきましょう」とアドバイスされたことに衝撃を受けました。

 日中韓の学生がそれぞれの平和を願い踊る動画をアップロードしたら、自身もヘイトスピーチに晒された友人もいました。

 だからといって誰も傷つけないでおこうと最大公約数的になれば、その表現からは魅力がなくなります。

  インスタントに「ええ話やなあ」と消費されてすぐに忘れ去られり記事がFacebook上にあふれかえっていたりしますが、そういった表現にはあまり価値がないと僕は思います。「ためになった」でも「感動した」でもいいですが、人に何か真剣に影響を与えようとするから価値が生じます。

 個人的な反省もあります。昨年、僕がブログや他の媒体でさまざまな人にインタビューして記事にした際、また私見を書いた際にどこかで「嫌われたくない」という思いが強く働いて、必要以上に曖昧な表現をしてしまったこともありました。

 するとやはり、そういう記事は愛されないし、「中身がない」とばっさり言ってくれる人もいました。賛否両論まっぷたつ分かれるような記事、人の喜怒哀楽の気持ちを激しく揺さぶるような記事は総じて読まれます。

 繰り返し述べますが、何かを強く表現するということはそれがジャーナリズムであれフィクションであれ人を傷つけうるのだと思います。ある読者にとって届けなければならない情報は、別の読者や、取材相手にとって致命的なものであることは多々あるでしょう。楽しませるためのフィクションが差別だととらえられることもあります。

 「表現の自由」について、僕は専門家のような知識を持つわけではありません。しかしその権利が市民の、権力に対する闘争の過程で勝ち取られ、何度も脅かされてきた経緯は逆説的に、「表現とはある種の毒を内在するもの」ということを示しているのではないでしょうか。

 僕はもちろん殺されたくありません。けれど表現という毒に魅せられた一人なのだから、その扱い方に長け、正しい用途を心がけ、しかし「賛否両論」となることを怖れてはならないという、当たり前のことを再認識した日曜日の夕暮れときでした。

 

via: 表現という毒について

 

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コメント

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  • コメント (2)
    • キジトラさん
    • 2015年 1月 18日

    >・表現の結果として、毒(批判)になって誰かを傷つけた
    ・誰かを傷つけたり挑発するために表現した
    両者は似ていてるようで違うものです。シャルリーは、何か思想・主張のようなものがあって表現をしたんじゃなくて、炎上目的(売れるだろう・ウケるだろうっていう意図)のもとにあの風刺画を描いたんじゃないかと思える(シャルリーの本当の意図なんて知らんけど)。

    思えるというのはあなたの主観であって客観ではないのです。
    どちらが思惑か?それを一体誰がどう判断するのでしょうか?
    そもそも結果的に表現が同じだった場合、そこに何の差異があるのか?

    >次に、「毒」の程度・方法もきちんと把握して論じるべき。 表現には毒がつきものだ、と言って、どこまでも際限なく毒を認めていいのか…決してそうではありません。日本の法律では、名誉棄損・侮辱などに該当しない程度の表現が求められます。公共の福祉に反しない限りの、いわば常識的な範囲での「毒」じゃなければならない。そんなの知ったことか、と誹謗中傷を垂れ流すのは、表現者ではなくただの無法者でしょう。

    違う違う。表現には多かれ少なかれ毒は付きものなの。
    だからそれを毒と判断すれば相手の表現者に毒を投げつければいいんです。
    あくまでも表現の中でね。
    法律ってただの文言です。判断は司法が行います。
    常識的な毒というのが今ひとつ理解できない。
    現行法のなかで司法が毒だと判断するものは表現者が罪を背負うだけです。
    だからってその表現そのものを止めるものでもない。

    無法者じゃなくてそれが表現の自由です。
    自由には責任を伴う。だから後から司法に毒と認定されれば当人が罪を追うだけです。
    その表現事態に他人がとやかく言う事が表現の自由を奪うということなんですよ。
    わかる?

    >大阪の道路標識に「アート」の名目で、シールを貼り付けて逮捕された自称芸術家が逮捕されたって事件が起きました。アート・表現は自由って言って暴走するとこうなるんですよねぇ。

    これも一種の表現です。
    但し現行法では違法ですから罪を負うだけ。
    でもそれと表現の自由を認めるかどうかは別問題。
    なんでこんな簡単な事が理解できないんだろうか。

    同じようにしばき隊のカウンターも表現なんでしょう。
    だったら在特のデモも表現の自由です。
    在特は罪を背負った。それは表現の自由に対する代償です。
    その代償を払う世の中こそが表現の自由を尊重している社会なんです。

    規制したらその責任も負えなくなるんです。
    これが表現の自由を潰した世の中の成れの果てです。

    • キジトラさん
    • 2015年 1月 18日

    もうちょっと補足しますね。

    >【シャルリー・エブドテロ事件】表現の自由を無制限に認めても良いのか

    無制限には認めることは絶対にないんですよ。
    司法がストップをかけるから。
    でも表現の行使と司法のジャッジは別です。
    表現する前に規制するのは絶対悪です。

    なんかだんだんとしばき隊への風当たりが強くなってきたんでしょうか?
    イスラク過激派のカウンターはしばき隊のカウンターと同じですから。
    両方とも表現の自由を弾圧しようとするテロ行為です。
    絶対に許されるものじゃありません。

    判断は司法が行えばいいんです。
    くされサヨクのしばき隊にはそんな権限はこれっぽっちもないって事です。

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