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ネットの変化

ネットの変化

昔(2000年代前半)からネットに棲息しているブロガーたちは、窮屈さを感じているようです。小島アジコ氏は、かつてネットはもっと自由だった、はてブ・ツイッター・フェイスブックが全部悪い、と愚痴っています。

 

 ネットの変化 最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか? – orangestarの雑記

 

オタク精神科医シロクマ氏も、この意見におおむね賛同し、その上でネットの変化を「コミケ的なものから、テレビ的なものになった」と解説しています。

 

わたしは…昔からROM専ってたくさんいたんじゃないの、って思うんだがなぁ…。



私の話

今でこそウェブライター兼サイト運営なんてことをやっている私ですが、5年くらい前までネットはROM専でした(一応Win98からPCでネットは見ていた)。mixiもあしあと機能が消える直前くらいに始めた「新参」だったし…本格的にネットで発言を始めたのはTwitterをやりだしてからだったと記憶しています。で、このような人間からすると、小島アジコ氏やシロクマ氏のような思い出話はちょっと他人事というか…懐古主義なんだろうなぁと感じてしまいます。

 

実は2ちゃんに書き込みってのもいまだにしたことがありません(キジトラ管理人もしたことがないって言ってたw)。

 

ネットは怖い

シロクマ氏などは昔は書き手同士で言いたいことを言えてた、と懐古していますが…わたしからすると当初からネットは開かれた空間で何が起こるかわからず怖いって感覚がありました(だから2ちゃんに書き込みなんて怖くてできない)。

 

ROM専って言葉は昔からあったと記憶しているので、たぶんわたしのような人間は決して少数派ではないんでしょう。書き手同士は、自分たちだけが閲覧していたと思っていたけど、実は隠れたオーディエンスがたくさんいた、と。

 

ネットがテレビ的になり、気軽に書き込みできるようになった、とシロクマ氏は指摘しています。が、実はまだまだそうではありません。2ちゃんまとめサイトなんかは、100~1000PVで1つコメントがつけばいい方。わたしが運営しているサイト(キジトラではない)は、数千人に1人くらいしかコメントしません。それでも昔と比べたら活発で「窮屈」なのかもしれませんけど…

 

かさこ氏がいうように、オーディエンスを意識せず情報を発信していくっていう姿勢でいるくらいでちょうどいいのかもしれません。なんだかんだで小島アジコ氏もシロクマ氏も、SNSなどで批判にさらされ続けながらも自分の意見を発信し続けているっていうアレw

 

記事引用

00年代初頭のインターネット、それこそ月間PVが200以下の世界の、いわゆる“○○のホームページ”時代のインターネットは、概ね「オーディエンスはみんな書き手」だった。個人ウェブサイトを訪問する人間の大半は、自分自身が書き手でもあった。だからといって揉め事が無かったわけではないけれども、「オーディエンスはみんな書き手」の割合が高かったことで担保されていた何かはあったのだと思うし、揉め事はあくまで書き手と書き手のソレが中心だった。

 はてなブックマークが実装当時のブログ世界も、たぶんそう。はてなブックマークの初期ユーザーがブロガー(や個人ウェブサイトの保有者)である確率は、今よりも高かったと記憶している(違っていたらご指摘ください)。読み手は、読み手である以前に書き手であった。読み専のはてなブックマーカーが増えてきたのは、もうちょっと後の時代だと思う。議論や揉め事は、読み手の“世論”による以上に、書き手同士のトラックバックによって進められるところ大だった。

 言い換えると、この頃のブロゴスフィアやネット空間は“コミケ”に似ていたと言える。読み手専門・寸評専門な人は相対的に少なく、書き手と読み手の境目は曖昧だった。書き手それぞれが書きたいものを携えて交換と交歓をしていたという意味において、ネットは“コミケ”に近かった。

 この構図がいつごろ崩れてきたのかは明言できないが、00年代中ごろ〜10年頃に変わっていったのだと思う。

 ブログを書かずに読む人・ブログの読み専は増えていった。2ちゃんねるも、書いて叩いたり叩かれたりの時代から、まとめサイト経由でダイジェストを読み、それをテレビに向かってあーだこーだ言うように寸評する人の多い時代になった。ニコニコ動画もまた然り。お客さんの時代がやって来た。議論や揉め事もまた、書き手同士の交換よりもオーディエンスの“世論”を意識したものが中心となっていった*1

 で、SNSの時代がやって来て。皆が書き手になったのか?違うと思う。皆が寸評者になった。誰もがテレビに向かってあーだこーだ言うように、ネットコンテンツを寸評する時代がやって来た。ネットは書き手で満ち溢れた以上に、寸評者、視聴者でいっぱいに充たされた。どんなネットコンテンツも、どこでどんな人がみているかわからない。誰かに罵声を浴びせる時でさえ、オーディエンスを意識し、政治的に発言する人のなんと多いことか。

 今日でも、ブログや動画には書き手(発信者)がたくさんいる。でも、今の書き手は「読み手はみんな書き手」という意識は持っていないと思う。むしろ反対だ――「書き手はみんなオーディエンス」という意識、言い換えると、書き手の心で書いているのでなくオーディエンスの心で書くことが増えているんじゃないか。オーディエンスの心・寸評者の心が書き手の行動原理として大きくなっている、と言っても良いかもしれない。とにかくも、読み手の論理が書き手の論理に優越するようになった。控えめに言っても「まず書き手ありき」というロジックは今ではあまり見かけない。

 ネットメディアは、“テレビに似てきた”

 人がテレビカメラの前で喋る時と、コミケで会話をする時では、言葉遣いはかなり変わる。誰もいない部屋で一人でテレビを視ている時の呟きも、これまただいぶ変わる。どちらにしても、これらは“コミケ”的なメディアではない。インターネットが本当の意味で“メディアになる”とは、誰が視ているかわからない前提でアウトプットし、誰が書いているかに関わらずインプットする、そういうロジックが定着することだった。のみならず、不特定多数のオーディエンスの反応を内在化し、そのロジックに従って書く書き手が増えることだった。もちろん、オーディエンスや寸評者の反応を行動原理にするほど、“自由気儘なブログライフ”からは遠ざかってしまいやすい。寸評者の反応を窺いながら書きたいことを書くのは、色んな意味でテクニカルだ。

 “コミケ”的なメディアとしてのインターネットが“テレビ”的なメディアとしてのインターネットになったことで、書き手に求められる諸々は高くなって、読み手に求められる諸々は低くなった。教会のステンドグラスや国営放送のテレビ番組などがその最たるものだが、不特定多数がまなざす性質の強いメディアほど、私達は襟を正して語らなければならなくなる。笑いを取る時すら、不特定多数のまなざしを意識した、そういう“やりかた”になってくる。そして、不特定多数が違和感を覚えるようなアウトプットには、批判や嫌悪が集中しやすくなる。

 このあたりが、ブログが不自由になるという感覚、ネットが不自由になるという感覚と、深く関連しているのではないかと私は思う。少なくとも、ネットが“コミケ”的だった時代を記憶している人には、そう感じられるんじゃないのかな、と。

 

via: ネットは“コミケ”から”“テレビ”になった。

 

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コメント

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  • コメント (1)
    • キジトラさん
    • 2015年 2月 11日

    いや、ネット自体は自由だろw

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