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叱り手の能力と叱られ下手な人 

阿川佐和子さんが「聞く力2」を出版

テレビタックルで人の話をまったく聞いていないような質問を挟み込むことで定評のある阿川佐和子さんが、「聞く力」という非常に面白いタイトルの本を出してベストセラーになっていたようです。阿川氏の口から聞く力って言葉が出てくること自体わたしには不思議でたまらないのですが… それは置いといて、「聞く力2」が出版されたようです。メインタイトルは「叱られる力」。

 

この本も聞く力(1)も読んでいないので分かりませんが、ブロゴスで叱られ上手になるための方法などについて書かれた記事を発見したので、叱ること・叱られることについて論考します。





叱り手の能力と叱られ下手

オタク精神科医ブロガーのシロクマ氏は、叱られ下手についての記事を書いて「叱り手の能力次第云々」というコメントをもらって呆然としたそうです。

 

叱られてもそれを糧にできないのは、送り手の責任だ、という意見。シロクマ氏は、叱る側の責任などには興味はない、と吐き捨てていますが… 叱る能力と叱られる能力って車の両輪みたいな関係なんじゃないかなぁと思います。

 

世の中には、何か叱りたくてしょうがない(人を攻撃せずにはいられない)って人も多数います。そういう人から叱られている際に、何か教訓をと言われても、「ハァ?」となってしまう。「効率よく叱られる方法」とか、もうハイハイと黙って聞くことくらいなわけで。

 

その逆もまた然りで、叱られベタ・叱っても意味がない人に対しては、シロクマさんも認めるように注意する気力すらわかなくなってしまう。

 

もちろん、すべてのコミュニケーションは成長の糧になるはずだ、というシロクマ氏のポジティブな意見も非常に参考になります。 叱られ上手にならないと、何か間違ったことをしていても、誰からも注意してもらえずに恥ずかしい人生を送ってしまうことになりますし、組織や社会にも迷惑をかけてしまいます。

 

叱られ上手になるための方法・近道はないようで、地道にスキルアップしていくしかない、とシロクマ氏はコメントしています。

 

叱るのニュアンス

ところで、「叱る」というニュアンスにどうしても怒鳴りつけるだとか、怒るようなイメージを抱いてしまう。 指導・注意といった方が、個人的にはしっくりくるかな。指導と叱るを同義にとらえている人って、なんとなく叱り下手なんじゃないかなぁとか思う部分も…w

 

ちなみに、叱るを辞書で引いたら…「目下の者の言動のよくない点を指摘して、強くとがめること」と出てきます。「強く」って部分が、指導との違いかな。

 

記事引用

今まで、

 

 1.叱られた場面から教訓を得たことの無い人

 2.叱られたら思考停止して自分が悪いと思うしか無かった人

 3.叱られたら必ず逆らってきた人

 

 は、叱責や注意から何かを学ぶことができない。これは、自分自身の行動を改めるための道筋がそれだけ少ないことを意味する。弱点と呼ぶに足りる特徴と思われる。

 

 こういった人達にとって、「自分の弱点を、誰かから教わって修正する」のは非常に難しい。世の中は、悪意や敵意やコントロール欲に基づいて威張り散らすだけの輩で構成されているわけではない。それ相応の必然性を伴ったかたちで、注意や叱責をせざるを得ない状況、せざるを得ない個人というのは往々にしてある。重大な過失やリスクを背負っている場合は特にそうだ。けれども、理由がなんであれ叱責や注意から役立つエッセンスを汲み取れない人には、そうした必然性や文脈は理解されず、ただ、大きなストレスと不満、トラウマじみた記憶だけが残ることになる。十分な配慮と親切心に基づいた注意や叱責すら、しばしば退けられる。

 

 困ったことに、1.2.3.に該当すればするほど、その人は以前に注意や叱責を受けたのと同じ間違いを繰り返す可能性が強い。注意や叱責を介した学習が困難である以上、それは仕方の無いことなんだけれど、世間一般は「注意されても行動が変わらない人」「人の注意や叱責に耳を傾けない人」とレッテルを貼りがちで、それがまたコミュニケーションや居場所を阻害してしまう。

 

 もちろん、そういう人も褒められれば耳を傾けるだろう。「俺は注意も叱責も受け付けないが、褒めれば伸びるから、褒めてよ。褒められて強くなるタイプだから」――ならば、そういう人はひたすら褒めて伸ばせば良いものか。そうもいかない。そのような人に90%の褒め言葉と10%の注意や叱責をミックスして提供すると、混入した僅かな注意や叱責は華麗にスルーし、90%の、澱粉のような称賛に舌鼓を打つ……そんな展開になりやすい。誰からも注意を受け付けない人物が、自責や自戒に長けているのでない限り(あまり無いことである)、自分自身の弱点や欠点は顧みられることが無い。

 

 だから自称「褒められて伸びるタイプ」にして注意や叱責を糧にする余地の無い人は、唯我独尊の沼に簡単に沈み込んでしまう。唯我独尊でも構わないような冠絶した才能があるならいいかもしれないが、普通の人間が唯我独尊に嵌り込めば、人生の先行きは暗い。

 

 なお、念のため断っておく;全ての注意や叱責を、かならず受け止めるのも、それはそれで間違っている。世の中には、自分自身の欲求や気まぐれに基づいて怒鳴ったり文句をつけたりする連中も珍しくないので、そういう、栄養素の乏しい叱責や注意、もっと言うと罵倒は丁寧にスルーしておかなければならない。

 

 「叱られるにも目利きが必要」なのだろう。

 

 先日の記事では、承認欲求の目利きが出来ないとロクなもんじゃないと書いたけれど、注意・叱責・警告の類についても同じことが言える。叱られ上手で教訓をどんどん学び取る人もいれば、叱られれば全部一緒くたにストレスになってしまって学ぶどころではない人、クソもミソも全部受け止めようとした挙句、消化不良を起こして破綻する人もいる。

 

 

対策

 

 残念ながら、叱られ上手になるための近道は思いつかない。理屈そのものは理解できても、情緒的に受け付けないことの多い領域なので、「叱られるための目利き」を発達させていくのは意外と難しい。

 

 ただ、人間は生涯変わっていく生き物なので、叱られ慣れていなかった人も、自分に役立つ注意や、自分の身を案じて叱責されたと感じる機会に巡り会えば、少しずつ注意の目利き、叱責の目利きが利くようになり、心理的な器用さが増して行く余地はある。

 

 その際ネックになるのは、自分にとって役立つ注意を与えてくれる人、自分の身を案じたうえで注意してくれる人とどうやって巡り会い、どのように縁を保つか、だ。

 

 なにも、あらゆる他人の叱責や注意を受け止める必要は無い。けれども「この人の叱責は不思議と身に染みた」「この人の注意に助けられたことがある」的な人物との出会いは、承認欲求を安定的に充たしてくれる人との出会いと同じぐらい貴重だ*1。そういう人物を、見逃してはいけない。

 

 人情としては、心地よい称賛や是認に耳を傾けたくなるのはわかる。けれども、人間関係の選び方として「褒めてくれる相手だけ選び」「注意や叱責をよこす相手は避ける」一辺倒では、バランスが取りづらく、自分をスポイルされやすい環境ができあがってしまうだろう。「褒められ上手」としてのスキルアップだけでなく、「叱られ上手」としてのスキルアップを意識しておいたほうが、堕落しにくく、短所や欠点を意識しやすい。

 

via: 「叱られ下手は堕落しやすい」に関して – シロクマの屑籠

 

昨日の記事に、以下のコメントがついているのを観て、しばらくボンヤリしました。

叱り手の能力次第じゃね?「(意味が)伝わらないのは送り手の責任であって、受け手の責任じゃねぇ」ってとこ。ついでに叱るのは叱り手の損が多いからじゃね?損が大きければ必然的に「真剣に叱る」んじゃね?

http://b.hatena.ne.jp/kingate/20140626#bookmark-201169622

 「伝わらないのは送り手の責任……。」

 はあ。

 責任、ねぇ……。

 そういえば、そういう見方もあるんですね*1叱る側、注意する側に【伝えなければならない責任】があるような状況が、世の中には確かにあります。

 でも、現代社会において、そんな【伝えなければならない責任】なんてどこにどれぐらいあるんですかね?折に触れて、言語的・文章的に【伝達を行った】【注意を勧告した】という形式を踏まなければならないのはその通り。でも、然るべき伝達形式を守っても伝わらない時は、システムやマニュアルに従って処分の対象にする仕組みができあがっているのでは?

 もっと言うと、真に個人として注意・叱責しなければならない場面って減っていると思うんですよ。注意・叱責はシステムに則って行われ、上司や先輩もそのプラットフォームに過ぎません。人間関係が文脈や役割で区切られ、職場関係や師弟関係がシステムによって枠付けされた社会では、個人として注意・叱責しているようにみえる場面でも、その実、システムやマニュアルが注意や勧告を促しているに過ぎない事が多いじゃないですか。そういう状況下の注意・叱責に関しては、叱る個人の責任ってやつが、私には不明瞭なものとして感じられるんですよ。

 責任の話は終わりにして、そろそろメインの話に移ります。

 現実の人間関係、とりわけ私的領域はシステムの枠におさまらないので、注意や叱責が個人的動機や感情によって生じる場面はまだあります。問題は、そうした叱責や注意が個人的動機に基づいているがために、叱ってもしようがないと思った相手は叱らないし、注意を促す必要を感じない相手は注意しない、って点です。

 要は、「叱る人間だって相手を選んでいる」ってことです。時間や労力をかけた挙句、なんら効果が無く、相手に恨まれるかもしれない叱責なんて、誰もしたくないですからね。そんな相手と対峙する時には、システムや制度の命ずる範囲を一歩もはみ出したくないでしょう。

 だから、叱ったり注意したりする人間の能力だけを問題にするのは片手落ちで、叱られる側としての所作、もっと言うと、自分よりもノウハウやスキルに勝った先達からどのような注意や叱責をどれぐらい上手に引き出せるかの個人的能力がきわめて重要になんですよ。

 世の中には、明らかに叱られ下手な人間がいます。

 叱られ下手にもいろんなタイプがいて、何を言われても学習しないタイプ、叱られると思考が止まってしてしまうタイプ、叱られることで人一倍ストレスを感じるタイプ、等々です。しかしタイプの如何にかかわらず、そうした叱られ下手な性質ってのは、見ている人は見ているし、気がついた周囲の人間は「こいつはなるべく叱っちゃいけない。叱らずに済ませるようにしよう」と考え始めます。いずれ本人の損になると分かっていることでも、それどころか組織にとってマイナスになると分かっていることでさえも、やむを得ないコストとして放置されることもあり得ます。

 反対に、叱られるのが上手な人間もいます。

 叱られ上手にも、やはりいろんなタイプがいて、駄目な叱り方をする人間に敬遠されやすい人、叱っている人の言語化を促すのが巧い人、どんな注意をされた時に行動修正しやすい人物なのかを周知させるのが巧い人、等々です。こうした人達は、注意や叱責によってストレスフルになりすぎることなく、効率的に先達者からスキルやノウハウを吸収していきます。なんらかのかたちで叱責や注意を栄養源とし、その効率性を高めているような人達です。

 “自分自身の学習や成長”という視点からみれば、上司や先輩の注意責任だの管理責任だのは、興味をそそるテーマではありません。それより私が心惹かれるのは、ひとつひとつの場面、ひとつひとつのコミュニケーションから、実利の高い経験値を叩き出せるか否か、というテーマのほうです。叱責や注意もコミュニケーションの一場面である以上、そこで貰うモン貰っておかないと損だよねって事です。

 だから、リスクやコストを最小化しつつ、ベネフィットを最大化できるような叱られ方が出来る人と、そういうノウハウを欠いている人では、学習や成長に結構な差が出ると思うんですよ。五年、十年と経つうちに大きな差になるのではないでしょうか。

 それと、成人して暫く経つと、叱ってくれる人が次第にいなくなってくるじゃないですか。うかうかしていると、誰も叱ってくれなくなります。本人は、それでラクかもしれないし自分は常に正しいと思い込めるかもしれない。その代わり、誰も過ちを直してくれない。

 誰の目にも明らかな欠点を曝している成人、誰の目にもナンセンスな計画を立てている成人に、他人は冷たいものです。「この人なら、叱って伸び代のある人かな」「こいつは注意を受け入れる余地がありそうだな」ってコンセンサスがある人には、注意される余地がまだしも残されますが、そうでない人は放置推奨――それが、(都市や郊外における)成人の付き合いってやつだと思うんですよ。

 あるいは、歳を取ってくれば年少者に直言される機会が増えるかもしれません。でも、これだって、利く耳を持たない年長者と判断されてしまえば、年少者は誰も直言しなくなるでしょう――「あのおっさんは、何を言っても分からないから、スルー推奨」――それって“老害一直線”じゃないです?

 こうやって文章化してみると、他人から注意や叱責を受け入れる巧拙は、年齢とは無関係に重要だな、と痛感してきました。若い頃から唯我独尊を何十年も続けているようでは、“お手製の馬鹿者”になるのを避けられないのではないか;そんな風にも思います。

「叱られる」に対する積極的機動

 それともう一つ。

 注意場面や叱責場面を人間関係の調整場面として活用できる余地があるなら、活用すべきだとも思います。

 注意や叱責もコミュニケーションである以上、叱られる自分だけが影響を受けるのではなく、叱る相手も必ずなんらかの影響を受けます。作用-反作用の法則みたいなものです。だったら、叱られる側としては、ただ黙って叱られているのではなく、これから先、なにかとやりやすくなるような叱られ方をしたほうがいいじゃないですか。

 旨味に富んだ叱責をわかりやすく提供してくれる相手には、相応の対応を。どう考えても役に立たない叱責しかよこさない相手には、それはそれで相応の対応を。

 もちろん、実際には単純な二項対立に納まるものではなく、納めるべきでもありません。それでも、叱られる際の身振り手振りやその後のフォローに関しては、やりようは色々あるはずで、叱る側の動機づけに働きかけたり、叱る側のレトリック運びや態度に影響を与えたりする事は可能です。もし必要なら、「こいつは叱ってもしようがない」と思わせることだって出来るでしょう。

 そのあたり、どこまで自分の意志を働かせることができるか、また働かせたとして狙いどおりの結果を得られるのかは難しいところですが、全く意図しないで叱られているよりは意識的なスキルアップの余地が生じますし、(仮に)2%程度でも相手の行動確率に働きかけることが出来るなら、それで十分だと思います。たとえ劇的な変化が望めなくても、ごく僅かな積み重ねを何年も続けているうちに、人間関係が変わってくることはよくあることです。

 私は社会適応マニアなので、注意や叱責といったコミュニケーション場面も、なるべく効率的に血肉にしたいと思っちゃうんですよ。そうした余地がある場面では、口を開けて待っているのではなく、むしろ旨味のある注意や叱責を積極的に捜索し、必要なら取りに行く――ここ十数年は、そうやって生きてきたつもりです。どこまで意図どおりになっているのかは怪しいところですが。

 疲れてきたので、ここまでにいたします。

 

via: 叱る側の責任には興味ありません。叱られる際の効率性に興味があります。

 

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f4ba5421248c4850e256051c4a2c92b4 叱り手の能力と叱られ下手な人 




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コメント

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  • コメント (3)
    • キジトラさん
    • 2014年 7月 14日

    独立した今はどげでんよか

    • キジトラさん
    • 2014年 7月 15日

    結局自分に都合のいいことしか見ようとしてないよねこれ

    • キジトラさん
    • 2014年 7月 15日

    面白い(c_c)

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